大阪府立大手前高校昭和50年卒同窓会     学年新聞vol_18  
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vol_18_01    賢人のひらめき 3-7 小林一則 

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南部ご夫妻  朝5時の電話というとびっくりするが、シカゴ在住の南部陽一郎さん(87)にとってはうれしいびっくりだった。不安げな奥さんの智恵子さん(87)に「ストックホルムからだよ」。ノーベル賞受賞の知らせだ。長年、候補に挙がってきただけに感激もひとしおだろう。その智恵子さんは大手前高等女学校の出身だとか。世界のナンブを支えた賢夫人。記者の取材に「彼には(ノーベル賞を)取ってほしかった。本当にうれしい」と涙ぐんだという。こちらも目頭が熱くなる。
 2008年秋のノーベル賞の日本からの受賞4人はうれしいニュースだった。研究の内容はなかなか難しくて、やわらかく書いているはずの新聞を読んでも、やはり難しい。それでもわからないなりに、これで理系離れに歯止めがかかるか、と勝手に思ったりもする。

 それぞれに大変な業績だが、物理学賞の益川敏英さん(68)は、風呂から上がる瞬間にアイデアがひらめいたとか。午前8時2分に京都産業大に出勤し、午後9時36分には入浴するという益川さん。朝の端数の2分というのは、バスや電車の時間から逆算してわからないでもないが、入浴が36分という判で押したようなこだわりは、どうだろう。68歳の益川さん、今回の受賞がなければ融通の効かない頑固親父と評されるかもしれないが、新聞で見る晴れやかな面持ちは好々爺そのものだ。そのこだわりにノーベルの神様が微笑んだようで、わがことのようにうれしい。
益川敏英さん  風呂場でも喫茶店でも散歩道でも。はたとひらめくことがあるそうで、買い物の店先では、包装紙の裏にやおら数式を書き始めたこともあった。「研究のきっかけやポイントの発見、最後の詰めは、歩きながら思いついたことの方が多いかもしれない」という益川さん、科学者が事件の謎を解明する福山雅治主演の人気テレビ番組「ガリレオ」を地でいくものだ。
 益川さんの人間臭さはそれだけではない。英語嫌いなんだとか。それでよく研究できますね、と心配したりもするが、そこは大先生。英語でないと話が通じない相手がいるとすれば「向こうが日本語を勉強すればいいんだ」。我が意を得たり。こんな先生がいてよかった。英語嫌いが高じてなのか、留学経験もなく、奥さんともどもパスポートもない。ここまで来ると拍手ものだ。でも、ノーベル賞の受賞式はスウェーデンで、奥さんも同伴。スピーチは英語字幕付きの日本語で、と異例だった。「皆さんが英語なのに私だけ日本語というのはさすがに格好悪かったな」と照れていたそうだが、いえいえ、格好いいですよ。

オワンクラゲ  化学賞受賞の下村脩さん(80)もユニークだ。光るクラゲの研究だが、その材料にするためのオワンクラゲ(この名前もほのぼのしていてうれしい)を家族やスタッフ総出で朝から日暮れまで網ですくっていたというのだ。下村さんらにとっては必要欠かせぬ作業だったろうが、傍目には何ともほほえましい。
 さて、かかる光る物質をどのように取り出すか。1週間ほど昼夜ぶっ通しで考え続け、奥さんが話しかけても返事もしなかったとか。すごい形相だったに違いないが、最後のひらめきは、海辺でボートに乗っていた時だそうだ。こういうエピソードを聞くと、難しい研究も大先生も身近に感じられる。

 ノーベル賞ではないが、和歌山市に本社のある編機メーカー「島精機」の島正博社長は、会社を興した若いころ、体調を崩して臥せっていた折、クモの巣を眺めていてひらめくことがあったという。糸を巧みに操りながら巣を作っていく。病床で来る日も来る日も眺めるうちに編機の新しいパターンが浮かんだ。そのアイデアが同社を世界的な編機メーカーに押し上げる原動力となったというのだ。
 湯舟でボートで病床で。これまでにも、電車の中でつり革につかまっていて、だとか居酒屋で一人で杯を傾けていた時に、とかでひらめいた人があったように思う。案外こんなものか。よしっ、俺も・・・。とはならないですよね。同じ場面は幾千万とあれでも、ひらめきは、十二分に裏打ちされた努力と勉強があってこそのことでしょう。

クモの巣  大先生、達人のひらめきは別として、がちがちな頭では、なかなかいい知恵も浮かばないようにも思う。ゆとり教育ということも叫ばれて久しいが、さて、教育はいかばかりのものか。評価は多々あろうが、やはり、柔軟な頭で対処できるのがいいのだろう。私も、益川さんに少しでもあやかることができればと、風呂を決まった時間に入ることにしてみたが、二日目に挫折。凡人はどこまでも凡人だ。でも、「けがの功名」「ひょうたんから駒」のことわざがあるように、凡人にもひょんなことから得をすることがあるかもしれないと都合よく願っている。

(上記は、季刊誌「大阪春秋」09年新春号への寄稿に加筆したものです)


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