大阪府立大手前高校昭和50年卒同窓会     学年新聞vol_10  
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vol_10_03    「記念の年」 真田 正明 

クリックするともとのサイズで表示  今年はいろんな記念日がある年です。日本ではまず戦後60周年ですが、私がいる東南アジアでも最近、いくつかの記念日がありました。4月下旬には、インドネシアのジャカルタとバンドンで、アジア・アフリカ会議の50周年記念会議がありました。高校では世界史や日本史の最後のほうに出てきたのをご記憶でしょう。この時期になると先生も学期の終わりまでに教科書を終えたいので、ほとんどすっ飛ばし状態でしたが。バンドン会議とも呼ばれたこの会議は、冷戦時代に非同盟諸国とか第三世界とか呼ばれた国の集まりをつくるきっかけになった重要な会議でした。ただ今回の会議は、日本と中国の関係が最悪になる中で、小泉首相や胡錦涛国家主席にばかり焦点が当たってしまった感がありましたが。

 もう一つは4月30日のサイゴン解放30周年です。これを「解放」と呼ぶか「陥落」と表現するかには、一つの価値判断があるようです。私はそれほどこだわってはいないのですが、ベトナムがそう呼んでいる「解放」が素直かなと思っています。「陥落」は、いまはすでにない南ベトナム政府と米国側に立った表現のように思えるからです。

 ホーチミン市(旧サイゴン)に行ったのは12年ぶりでした。ずいぶん変わったな、という印象でした。新しい商業ビルやホテルがいくつも建っています。以前から街路いっぱいに走っていたバイクはさらに多くなり、自転車は影が薄くなりました。その分、自動車が増えました。シクロ(人力タクシー)などはほとんど見かけません。人口600万人から700万人という街に、バイクが300万台あるそうです。夕方、街中をぶらぶらしていたら、公園の周りにバイクが一定間隔で並んでいます。シートに腰掛けているのは、みんな若いカップルです。京都の鴨川端の風景を思い出しました。彼らが気軽に遊びにいける場所は、日本のようにはまだたくさんないのでしょうね。
 以前は一番のホテルだったマジェスティックホテルは、シェラトンやソフィテルなど外資系のホテルが続々建って、すっかりかすんでしまいました。でも、最上階のレストランで風に吹かれ、サンパンが浮かぶサイゴン川の夕景色を眺めながら飲むビールは、相変わらず格別でした。ベトナム戦争のころは、従軍から戻った記者がここで安堵の一時を過ごしたのでしょう。もちろん、私も知らないころの話です。

 ドイモイ(刷新)路線に基づくベトナムの解放経済政策もようやく軌道に乗ってきたように見えます。最近のベトナムは、だんだん中国の雰囲気に似てきました。特にホーチミン市は上海のように、ベトナムの経済成長を支えています。ただベトナムでも、貧富の差が広がり始めています。高級外車を乗り回す金持ちが生まれる一方で、農村の状況はそう変わりません。役人や共産党幹部の腐敗も、ひどくなっているようです。救いは、農村が中国の僻地ほど貧しくないことです。特にメコンデルタを中心にした南の方はそうです。それは東南アジアという自然に恵まれた地にあるというおかげでしょう。ベトナムはタイに次いで世界第2位のコメ輸出国なのです。  日本からの投資やODAも増えています。東南アジアは中国リスクのヘッジ先とされています。ベトナムはまだ社会主義という制限はあるものの、人の質の高さに魅力があるようです。マレーシアやタイがODAを卒業していく中で、ベトナムには、港や橋、道路といった日本好みの大きなインフラ整備プロジェクトがいくつもあります。その点では旧来型のODAが、まだ生きているところです。

 ホーチミン市から車で1時間半ほど行ったところに、クチという戦跡があります。毎日、多くの観光客がバスで訪れます。ベトナム戦争のころ、ここはベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の拠点でした。地下にはアリの巣のようなトンネルが張り巡らされ、米軍の爆撃を避けながら、ゲリラ戦を仕掛けていたのです。今では、大柄な米国人がトンネルの中に入ってみて、その狭さに驚く光景がいつも見られます。「我々はこんな敵と戦っていたのか」と、改めて感じ入っているのでしょう。
 ここで当時の解放側がつくった宣伝映画が上映されています。そこにAK47小銃をもって匍匐前進している美しい女性兵士が登場します。当時まだ20歳前だった彼女は、いまクチの近くの村に住んでいます。当時の女性兵士らが彼女の家に集まったところに、取材に行きました。彼女が目の前の米兵を殺せなかった話は記事にしましたので、ここでは繰り返しません。集まった8人はみんな50歳代前半。すでに孫がいる人も何人かいます。その人たちが、「私は10人米兵を殺した」などと自慢げに話しているのを聞くのは、なんとも複雑な気分でした。
 彼女たちに聞いてみたいことがありました。彼女たちの当時の上司、つまりゲリラの隊長たちは、戦後どうしたのだろうということです。聞いてみるとどうやら多くは普通の村民に戻ったということでした。彼らはすでに高齢で、しかもちゃんとした教育や軍人としての訓練を受けていたわけでもなく、政府や軍では使ってくれなかったということです。

 ベトナム戦争は非常に複雑な戦争でした。米国とベトナム民族主義の戦いであり、資本主義と共産主義の戦いであり、南と北の戦いでもありました。その中で、一緒に米国や南ベトナム軍と戦った、北ベトナムと解放戦線の争いというのもありました。これはベトナムの「正史」の中にはほとんど出てこないそうです。
 解放戦線は北の指導や支援は受けていたにしても、かならずしも共産主義者の集まりではありません。米国や腐敗した南ベトナム政府を嫌う人たちの集まりでした。戦後の南の支配を考えれば、北ベトナムとしては扱いにくい対象だったでしょう。
 68年に北ベトナム軍と解放戦線が一斉攻撃を仕掛け、一時サイゴンの米大使館まで占拠したテト攻勢は、解放戦線側に大きな犠牲を強いました。このころから北ベトナムが、南での戦争の主導権を握っていきます。疑い深い新聞記者としては、何か裏があったのではないかと思ってしまいます。当時、北ベトナムの国防大臣だったボー・グエン・ザップは、本当にテト攻勢が人民蜂起を引き起こすと信じていたのか。聞いてみたいところですが、きっと本当のことは言わないでしょうね。

 米兵を殺した話や戦車を分捕った話をさんざんした後、元女性兵士たちは徒歩やバイクで自分の家に帰っていきました。その後ろ姿は普通の村のおばさんたちでした。いまのベトナムはこういう人たちが支えているのだな、とふと思いました。戦後60年たった日本では、もう戦争を語る人は少なくなりました。ベトナムもあと30年たつと、同じようになるのでしょうか。


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