大阪府立大手前高校昭和50年卒同窓会     学年新聞vol_07  
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vol_07_03   「未来への手紙」   仲野 徹 

時計  過去からの手紙をうけとった方がおられるだろうか。1985年のつくば科学博で企画された「21世紀のあなたに届く夢の郵便:ポストカプセル」が、15年あまり後の今年、配達された。当時、研究者生活を始めて1年にも満たなかった私は、不遜にも「偉大な血液学者になっているでしょうか?」と書いて送っていた。偉大とは言い難いが血液学者として生計をたててはいるのだから、予測は半分あたったことになるのだろうか。しかし、未来を予想することはよほど難しい。

           

 フランシス・ジャコブは、その著書「ハエ、マウス、ヒト」の中で、科学研究は、どの程度の驚きをもって受け入れられたか、が研究の価値を測る一つの尺度であり、予想だにされなかった研究こそが最高のものである、科学において最も重要なことは予見不能性であると喝破している。たしかにそうであろうけれど、そうなると、大きな研究をなすためにはどうしたらいいのだろうか、と考え込んでしまう。
           

 理詰めで考えて行った研究が、予想通りの結果をおさめたとき、私は素直にうれしい。しかし、そのような研究は予見可能な研究なわけで、大所高所から見ると、どうもたいしたことのない研究であるようだ。人がやった研究と同じようなことをしていちゃあだめだと言われても、今までだれもふりむかなかった材料や方法で、なおかつ重要なものを見つけ出すというのは、現代のような情報化社会ではよほどの幸運に恵まれないと、ほとんど不可能じゃないのと思ってしまう。それに、人がやってうまくいったことですら、自分でやってみるとうまくいかないことが多いという相当に確実な経験則を持っている私は、誰もやっていないことを初めてやってうまくいくのではないかというような楽観主義を残念ながらもちあわせていない。

           

 ぼやいていても仕方がない。気をとりなおして、いかにすれば予見不能なおもしろい現象にでくわす確率を増すことができるかというところに方向を転換しよう。というところで、人がやったような実験でもいいから地道に努力を続ける―科学者らしくより正しい記載をすると、若い人に仕事をしていただくようにお願いする努力を続ける―しかない、ということになってしまう。世の中の研究の90%、と言いたいがおそらくは99%以上、がこのような理屈で行なわれているに違いない。とどのつまりが、予見不能の中でいかに生きるべきかなどとたいそうなこと考えている暇があれば、実験のひとつでもしたほうがはるかにましなことである、と、小人(白雪姫のお供ではなくて、閑居して不善をなす方)にふさわしいところに落ちついてしまうのである。

           

 確かに、人生にとって予見可能なことは、唯一、いずれ死ぬということしかないのかもしれないけれど、将来なんとか幸せに暮らせたらと思う。そのために一生懸命に努力するべきだ。といっても、報われるかどうかという観点からみると、努力の成果も予見不能にはいるだろう。努力そのものが尊いという意見もあるだろうけれど、やはり本音としては報われたい。しかし、考えてみると、努力が必ず報われる世界というのは、努力が全く報われない世界よりも恐ろしいような気がしてしまう。努力の量で幸せになれるかどうかが決められたりしたら、みんなが努力競争に走ってしまってたまったものではありますまい。そう思うと、予見不能というのも捨てたものではないような気がしてくる。

           

 「リプレイ」という秀作ミステリーがある。今の私と同じ43歳の主人公が心臓発作で死ぬ。が、気がつけば、25年前の自分自身になって甦っている。前世での記憶をたどって未来を予見し、再生された二回目の人生では、競馬や株で大もうけして幸せな生活を楽しむ主人公。が、また43歳になって・・・という話である。荒唐無稽な話ではあるが、予見不能性とはいったいどういうことなのかを考えるにはもってこいの思考実験だ。リプレイ=再生がないからこそ、人は希望や感情をもって有意に生きていけるのではないだろうか。

           

手紙  同じ再生でも「replay」ではなく「regeneration」の再生、再生医学が大きな脚光を浴びている。夢ばかりが喧伝されている感があり、自戒もこめて、いささか無責任なブームかという気がしないでもない。さて、再生医学はこれからどのように進展していくのだろう。それこそ予想もしなかった大発見があり、マスコミが描く未来予想図のように医療の世界に大変革をもたらすのであろうか。それとも単なるブームに終ってしまうのであろうか。研究についてもそうである。人生についてもそうである。予見は不可能であるにしても、10年後、20年後にこうなっているのではないか、あるいは、こうありたい、と思いを馳せるのは悪くなかろう。予見が不能であるとわかっていても、いや、不可能であるからこそ未来への手紙を書こう。そして、自分が思い描く未来を実現できる可能性が少しでも高そうな方へ向かって歩いていこう。何年か後、胸をはって自分が書いた未来への手紙を読むことができるように。


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