大阪府立大手前高校昭和50年卒同窓会     学年新聞vol_07  
このプルダウンメニュー から 直接目的のページへジャンプできます  

戻る

vol_07_02    「エリュアールの一撃」 細田正和 

本・ペン  今年の1月、総務部にいる同期入社の男がニヤニヤしながらやってきて言った。「俺、社報の編集をしてるんだけど、『ことしの年男・年女』というコーナーにコラムを書いてくれないか?」。干支や社報に興味はないものの、日本社会にあっては「同期の頼み」ほど断りにくいものはないので引き受けた。(この原稿もそう)
出来上がった紙面を見ると、入社2年目の男、14年目の女、そして25年目の自分が登場していた。そこに書いた文章はでっち上げすれすれだったが、今も覚えているフレーズが一つだけある。 「この組織に入って三度目のサル年を迎えたわけだが、では次のサル年が来たら還暦・定年だと気づいて、膝から力が抜けた」――いつのまにかそんな年齢になってしまっていたという事実を、自分で書いた文章によってリアルに突きつけられたと感じた。

           

 まじめに振り返れば、兆しはあった。
「無頼派マイホーム主義」をスローガンに取材現場を走り回っていたはずが、「デスク」などと呼ばれ、呼ばれるだけでなく本当に「机」にしがみつき、後輩の原稿に赤を入れている。
 締め切りすれすれに原稿を突っ込んで、夜の街に繰り出す――支局時代のでたらめな日常は、締め切りに間に合わせる芸だけがうまくなり、終電前にそそくさと酒場を後にするパンクチュアルな暮らしへと堕落した。
 平日の休みに玄関チャイムが鳴ったので短パンでドアをあけると、集金のおばさんに「お母さんいる?」と聞かれる、こともめっきり減った。
 体重はさして変わらないのに、この20年でズボンのウエストは2サイズ大きくなった。肩や胸の肉が、重力と歳月に負けて、ずり下がって来たからだろう。
 髪に白いものが増えるだけならもうあきらめているが、こないだ鼻毛を抜いたら白かった。こけた。
 タバコをやめて6年になるが今でもやめたことを悔やんでいる。だが、また始めるほどのガッツはない。
 この1年半で喪主を2回もやる羽目になって、葬式ビジネスの餌食にされ消耗しまくった。
           

 あくまで「自分にとって」ということだが、47歳という年齢はちょっと不思議な気がする。まぎれもない中年なのに、50代ほどには開き直れず、社会的な"恰幅"からは遠い。肉体や生理に老いは忍びこんでいるが、では本格的に対処しなければ、というほどではない。女房はおばはんになり、子どもたちは生意気になるが、そんな相棒どもに説教を垂れる自分を嫌悪するぐらいの矜持はある。
要するに私は、緩慢にしかし確実に自分を侵しつつある「老い」にうまく向き合えないでいる。永遠のロック少年ニール・ヤングは「錆びてしまうより、燃え尽きた方がましだ」と歌ったが、彼のような潔さのない私は「燃え尽きるのは恐いので、錆びる方がましかも…」と思ってしまう情けなさである。そうかといって、ここで老いに立ち向かおうと、マラソンを始めたり、酒をやめたり、スポーツクラブへ通ったりと、起死回生を期するのはヤボだという"思想"はある。

           

 そんなこんなを夢想していた午後に、文芸欄の原稿が送られてきた。詩人の大岡信がフランスから勲章をもらった、その授賞式を報告する記事だ。ここで大岡氏は、フランス大使への答礼の辞で、ポール・エリュアールという詩人の言葉を引いていた。
ポール・エリュアールの肖像
    「年をとる
     それは
     おのれの青春を
     歳月のなかで
     組織しなおすことだ」

ガツンと一撃くらいました。
青春という限定的な年月に起きた、揺れる心情の断続的な爆発(僕たちが日々を共にしたあのころの)。その経験と記憶を、時間の流れのなかで再編成していくこと。これは、老いなければ可能にならない精神の作業である。僕らが生まれる数年前に亡くなった異国のシュールレアリスト詩人から、そんなことを学んで少し元気になった。   


戻る