どうして同窓会の会合にあれだけの人が集まるのか,長い間,疑問に感じていました。「昔の友だちに会えるから」「先生の顔が見られるから」というのですが…。十年ぶりではなく,毎年行われる会にでも,来る人は来るのです。
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人が同窓会の集まりに出るのは,人に会うためではないのです。
友達の顔を見た瞬間,昔に帰り,若くて未熟な自分が,それなりに純粋で,自分の将来,世界の未来に夢を描いて熱っぽくしゃべっていた時代を思い出します。若い頃に帰っておしゃべりをした後の「よろこび」は,純粋で,エネルギーに満ちた,若い時代の自分の姿を再確認できた「よろこび」で,それが翌日からの自分の人生に,大きなパワーを与えてくれます。時には小さな「悔い」も…。
同窓会に行くのは,「昔の自分に会いに行く」ことではないでしょうか。
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少し前ですが,『娘が語る母の昭和史』(武田佐知子著,朝日選書)という本を読みました。著者は日本古代史専攻の大阪外大教授。大手前の卒業生である母の思い出を書いた文章で,戦前の女学校の生活が生き生きと描かれています。
彼女(著者の母)は1931年大手前高女を卒業,奈良女高師(現在の奈良女子大学)に入学しました。この年の大手前の卒業生111名のうち,89名進学,22名就職。奈良女高師へ4名,東京女高師(現在の御茶ノ水女子大学)へ3名進学(当時,一般の大学は女子に門戸を開いていませんでした),ということでわかるように,この方はエリートコースを歩んだ人です。
3年ばかり,教員をして結婚,5人の子を産み,育てます。
戦争が終わり,生活も一息ついたところで,彼女は自分自身の生き方を考え始めます。育児と夫の世話に明け暮れる日々に満たされないものを感じていた彼女は,自分自身の生きた「あかし」,価値の実現を夢見ていました。
成人学級の世話役,短歌の会の組織,書道の指導。
結婚50周年に子供たちが記念パーティを開き,記念文集を作った時,夫は自らの生い立ち,妻との結婚に至る経過を書いたのに対し,妻は「私と書道」という題で,自分がいかに書に興味を持ち,書を生きるよすがにしたかを記しています。
「私が妻として,母としての役割以外にも,してきたことがあるのだということを,みんなにわかってもらいたかったから」と,のちに,娘に語っています。
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その頃,私は金蘭会110周年記念行事の一つ,慰霊祭の責任者でした。これまで10年ごとの周年行事にあわせて,慰霊祭を行うことになっていました。
過去10年間の物故者の調査,遺族の住所調べ,招待状の発送,会場準備,打ち合わせと,多忙をきわめる中で,なぜ慰霊祭をするのかという疑問が,私の中に生まれました。
航空機事故,大震災といった,多勢が同時に亡くなられた際の慰霊祭の例はいくつもあります。学校の周年行事というお祝い事の際に,慰霊祭を行う例はわずかで,私学,女子大,女子高に多いことに気がつきました。
その時,この本を読み,著者の母上のことばに出会ったのでした。
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人は学校を出て社会人となり,家庭を持って親となり,人生を歩みます。
「山あり谷あり」,順調ではないにしても,それなりに努力して得た成果を自分で確認し,受け入れて生を終えます。人生が必ずしも夢・願望どおりでなくとも,一応は結果に満足しながら,死を迎えます。
しかし,戦前の教育を受けた女性の場合はこうではなかったのでしょう。
自分の夢を持っていても,追い立てられるように家庭に入り,妻として母としての役割を期待されました。人生を終えるにあたって,それなりに大変な仕事をやり遂げた満足感はあっても,彼女たちの心の奥には,なにか満たされないもの,「うらみ」のようなものが残っていたのではないでしょうか。
夢がそのまま実現できるとは,だれも思いません。しかし,夢をはぐくむ努力をすることもなく,強いられた人生に入っていった。自分が何をしたかったかを考えるような,無駄な時間を持つこともなく,追われて時間が流れて行った。
私が,義母の介護をしながら,義母から漠然と感じたことも,それでした。
長い人生を,よき妻・母として生き,家族を支え,家族から敬愛され,経済的にも不自由なく晩年を過ごしながらも,自分の娘に向かって「お前はええな,好きなことができて」と,羨むというより「なじる」ような口調で繰り返す義母の心を往来する感情は何だったのか,私は考えていました。そこには,自分の人生への悔い,いらだちのようなものさえ感じられることがありました。
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人は死ぬとき,何を思い,何を考えて死ぬのか,というのは,私がずっと考え続けていたことです。
はたから見て,何不自由ないように見える人生を送った人たち(義母,武田さんの母上)にも青春はありました。学生時代がありました。
「妻として母としての役割以外に,自分はなにをしたかったのだろうか」という疑問,あるいは「したいことも出来なかった」という「うらみ」が,老人の心の奥にあることは,長年,一緒に生活している家族(配偶者も)には想像もできないのです。
しかし,若い頃,同じ「学び舎」に青春時代を過ごし,夢を語り合った昔の友だちには,なんとなく,わかるのではないでしょうか。家族も気づかなかった故人の「心の秘密」は,昔の同級生,あるいは卒業年度こそ違っても,同じ学校で同じような青春を送った同窓生には,共感できます。
あの世へ持って行こうとした故人の「心の秘密」を汲み取り,「みたま安かれ」と同窓生が盛大に慰霊祭を行うことで,亡き人の荒ぶる心もおさめられるのではないでしょうか。それが,同窓会で慰霊祭を行う本来の趣旨であることに,気がつきました。
慰霊祭は無事に終了しました。
多くのことを教えてくれた義母と武田さんの母上には感謝しています。
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