大阪府立大手前高校昭和50年卒同窓会     学年新聞vol_06  
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vol_06_01    <のすたる爺通信 3> 2004年3月1日 森 延哉 

 十年ばかり前,本を読んで好きな文章に出会うと,すぐ手帳に書き留めて,という時期がありました。管理職になってから話をする機会が増えたためです。
 「ことばの花束」のような名文句を集めた本があるのでしょうが,引用することばぐらい自分で見つけなければと思っていました。そうして拾い集めたことばを全部使ったわけではありません。使わなかったことばも多くあります。
 以下は,そのうちのいくつかです。

book_1
人間というものはあらゆることをいきなり,
しかも準備なしに生きるのである。
それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

 ミラン・クンデラはチェコの作家,ノーベル賞を受賞しています。代表作でもある『存在の耐えられない軽さ』は映画にもなりました。
 この文章,若いときに出会ったら,多分,見逃していたことでしょう。
 言葉の深い意味を読み取るには年齢が必要です。いい表現は必要としている人の眼に向うから飛び込んで来るものです。人生は一度だけだから面白いのです。もう一回やり直せたらなんて考えることは愚かなことです。

book_3
「ぼくは,二割三分は打つが,
それ以上は打てないことを知っている野球選手みたいなもんさ」
(ヘミングウェイ『武器よさらば』)

 10代で読み始め,その後,何度も読んだ小説に,こういう文章があったことに50代になるまで気がつきませんでした。
 仕事が面白くて熱中した時がありました。あふれるほどの自信と誇りを持って仕事をしながら,時にはカベにぶつかり,自分の資質に不安を感じることがあったある日,突然,この文章に出会いました。
 「二割三分」というのはメジャーリーグのレギュラー選手として,ぎりぎりの数字ではないでしょうか。一流選手の仲間入りはしている。しかし,それ以上の才能,選手としての記録を作る,タイトルを取るといった能力が自分にはないことに,ある日気づく…。
 自分を見つめ直し,自分の資質の限界を自分に納得させることは,とてもつらいことです。そういう時期にこの文章に出会ってほっとした記憶があります。

book_2
人は自分に配られた持ち札で勝負するのだ。
父親がそう言っていた。それが男というものだ。
(ジョン・サンドフォード『サディスティックキラー』)

 別に「男」に限りません。人はみな,自分に与えられた能力,肉体的条件(美醜,身長,健康),家族関係の中でジタバタしながら生きていかなければならないのです。カードの「総替え」はゲームの中だけ,現実には起らないのです。
 すべてリセットして一からやり直せたらいいなと思いながら,「今日は昨日の翌日」,過去を引き摺りながら生きていくのが人間なのでしょう。しかしまた,「今日は明日の前日」,苦しみ悩んだことが明日の自分を作ります。
 さて,この小説,ミステリーに違いないのですが,どんなストーリーで結末がどうであったか,全く記憶にないのです。おびただしい読書と,おびただしい忘却のあとに,このことばだけ手元に残りました。

book_4
強くなければ生きていけない。
やさしくなければ生きる意味がない。
(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』)

 いまさらいうまでもない有名なことばで,いろんなところで引用されます。管理職として仕事をしていた時期,このことばに随分,助けられました。
 大学時代に親しくしていた友人がいました。おだやかで,気のやさしい人でした。40代で中間管理職になってすぐ,上からと下からのプレッシャーに悩み,自死するという悲しい出来事がありました。
 以来,私は彼の分も生きようと決意したのです。どんなつらいことにも耐えよう,生き延びなければならないと思っていました。
 本当に大切なのは後半の部分だと,やがて気づきました。仕事をする,成果をあげるということは,反対意見をどこかで押し切り,聞こえてくる雑音の幾分かを切って行くことなのです。その時,本当に大切なものまで踏みにじるようなことをして来なかったか,気づいていなければ,その時から知的荒廃が始まる…。
 成果主義に惑わされず,していいことと悪いことの「けじめ」をいつも自覚して,自分の心のなかの「やさしさ」を絶えず確認しなければならないのです。それが仕事をすることの足を引っ張ることになっても,人間としての誇りを失わずにいるために必要なのです。

 「使わなかったことば」「使えなかったことば」を読み直してみて,それらが人に話すというより,自分を励まし,自分を鼓舞するためのことばであったことに今,気づいています。次も,その一つです。


能ある鷹も爪を磨く。

 出典不明。作者不明。もちろんパロディです。
 お気に入りのことばの一つで,思い出すたびに才能の不足している自分は,なおさらもっと努力しなければと反省します。
 しかし,場所をわきまえず相手を考えないでいうと,ずいぶんイヤミに聞こえるので,これまで誰にもいったことはありません。


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