最近,昔のことばかり思い出すようになりました。若い人に通じなくなった古い記憶を掘り起こし,文章化しようと試みています。まとまるまで何年かかるかわかりませんが,当分,退屈することがないのが幸せです。
以下は,昔話が好きな,自称「のすたる爺さん」の現況です。
蔵書の整理をしようと思い立ちました。書棚を眺めていると,買い込んだまま手をつけていない本がかなりあります。いくつかに目を通し,これから先の限られた時間の中でもう読むこともないと思える本は,順次,処分し,身軽にならなければと思ったのです。退職の際に思い切って四分の一ほど整理し,その後,単行本は買わない(図書館で借りる)主義ですが,まだまだ自室と書庫が本で溢れ,必要なものを探すのに一苦労です。昨年,『チボー家の人々』を読み直したいと思って探して見つからず,図書館で借りて読み始めると,書庫の隅から出てきました。
年齢的にそろそろ人生整理の時期に入っています。自分がこれまで何を学んで来たのか,何を学んで来なかったかが気になるようになりました。あとの方は少し注釈がいります。何々を学びたいと思いながら,その時の自分の関心の持ち方と時間不足で後回しにして学び損ねているものがいくつかあるということです。この機会に勉強し直したいと書庫の整理を始めると,読みたい本が次々に見つかり,その関連で図書館で本を借りて忙しくなり,書庫整理も中断したままです。
文章を書くよう頼まれて書けない状況を「書債」と表現した作家がいました。借金を返せないでいる状況と同じという意味でしょう。私の場合「読債」というべきでしょうか。読まなければならないという,もはや一種の義務のようになってしまった対象・テーマがいくつかあります。プルーストもその一つでした。
私は,大学は文学部に入りフランス文学を学びました。その後,生活のために国語の教師になり,フランス語とは縁のない生活に入りましたが,そのことを悔いる気持ちは一度もありませんでした。フランスへのあこがれは,西洋へのあこがれであり,「近代精神」を生み出した世界へのあこがれであって,それが自分の精神の中に具体化され,生き続けているならそれでいいと思ったからです。
私が学生だった頃,プルーストは静かなブームを起こし始めていました。代表作『失われた時を求めて』が東西のフランス文学者の協力・分担で翻訳されて刊行された時代でした。大学の授業のあいまに,教授からプルーストについての話を何度か聴くことがありました。紅茶にマドレーヌを浸して食べた瞬間に,幼時の記憶が蘇るエピソードは印象的でした。
しかし,私が卒論に選んだ対象はバルザックであって,プルーストはあまりにかけ離れた存在でした。『失われた…』が新潮文庫に入った機会に何冊か買い求めはしたものの(全13冊のうち欠けている巻がまだ一冊あります)時々,読もうとする試みも一冊目の半ばで中断ということが,過去に何度もありました。
昨年,鈴木道彦訳『失われた…』(集英社)に出会ったのを機会に,九ヶ月かけて読破しました。活字の大きさ,文章の相性等がよかったためです。500ページ平均が13冊,量だけでは大したことがないようですが,『ハリーポッター』のようにストーリーを追いかけて波乱万丈,息もつかせぬ物語とは違います。だらだらとした社交界のおしゃべり,下手なシャレに付き合わされるのにうんざりしながら九ヶ月の苦行に耐えると,十九世紀から二十世紀にかけて,第一次大戦前夜のヨーロッパの社会の動き,精神基盤がすっかり理解できるようになりました。そこで改めて『チボー家』を再読したくなった次第です。
「お茶(紅茶)とマドレーヌ」のエピソード。実は,このエピソードを聴いた若いころの私は,マドレーヌがどんなお菓子か全く知らなかったのです。小説では,「それは帆立貝の細い溝のある貝殻にでも流しこんで焼いたかと思える,あのころっとして膨らんだ《プチット・マドレーヌ》と呼ばれる菓子だった」とあります。
今では想像もつかないでしょうが1950年代後半のあの時代,このお菓子は一部上流社会の人は別にして,多くの日本人は手近に見ることの出来なかったものでした。紅茶も私が育った家庭では日常,飲むことはありませんでした。喫茶店でもコーヒーしか飲まず,知り合いの家で出されて飲んだのが初めての紅茶体験でした。
小説では,その先に「日曜の朝,私がレオニ叔母の部屋へお早うを言いにいったとき,叔母がよくそのお茶や菩提樹花の薬湯に浸してすすめてくれたあのあのマドレーヌの小さいかけらの味だった。」とありますが,《菩提樹花の薬湯(煎薬と訳している本もある)》が見当がつかず,再読の際にも,何て気味の悪いものを飲むのかと,叔母を魔女のように思いながら読んでいました。
この菩提樹は日本の菩提樹とは違う「オウシュウボダイジュ(シナノキ)」のことだと辞書にあります。ある時,いろんな辞書を見ていて,この《薬湯(煎薬)》が「ハーブティー」のことだと気がつきました。ハーブティーの専門店に問い合わせると「リンデン」というのがあります。叔母が飲んでいたのは恐らくこれに違いありません。叔母さんは魔女でなかったのです。
こんなことをなぜ延々と書いてきたかというと,紅茶にマドレーヌを浸して食べたらどんな感じか,ハーブティーならどうか,当時の私は何もわからずプルーストを読もうとしていたのです。「感性」で共感することなく,「観念」で受け止め,理解しようとしていた,文学の味わい方のあやまりを今になって気づいたからです。
外国文化の理解の前提に,生活実感の共有が不可欠だという当然のことに今,気がついています。あの当時,何もわかっていなかったのだなあという思いがあります。自分が若かっただけでなく,日本の社会がヨーロッパのように成熟していなかったからでしょう。そこから,文学だけでなく思想も含めて,自分は何を学び,何を学び損なっていたのかと自問するようになったのです。
これから先の人生を思う時,強く生きるためにも,もう一度自分の教養のルーツをたどり,自分の精神基盤の自己検証が必要でしょう。自分が積み上げてきた教養の根っ子にあたるものを再検討し,吟味し直さなければならないと思っています。以前,読んだ本をもう一度読み直すこともその一つでしょうね。
しかしまあ,むつかしいことはさておいて,一度,ハーブティーにプチット・マドレーヌを浸して,ゆっくり味わってみようと思っています。皆様もいかがですか?
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