みなさんご無沙汰しています。最近の同窓会にも出席していないので、高校卒業以来お会いしていない方もたくさんいらっしゃいます。同窓会のホームページを見ると、昔と変わらないかのように和気あいあいとされている様子が伺えて、懐かしいかぎりです。
「新聞記者なんだから何か書きなさいよ」と言われて、この文書を書き始めているのですが、新聞記事以外のものを書く機会はそう多くもなく、さて皆さんに何を伝えていいのやら。まず挨拶代わりに近況のご報告などさせていただきましょうか。
インドネシアのジャカルタに来て4月で2年になります。インドネシアと聞いて具体的なイメージがわく人が、どのくらいいらっしゃるでしょうか。私自身、赴任する前はバリ島に遊びにきたことがあるくらいで、それほどよく知っている国ではありませんでした。しかし、ちょうど10年程前にカンボジアの特派員をして以来、日本とは時間の流れ方が違うこの地域にとりつかれ、「できればもう一度東南アジアへ出して欲しい」と言ってきましたので、まあ希望がかなってここにいるというわけです。カンボジア以前はずっと社会部にいました。戻ってから数年もそうでした。10数年の社会部生活のうち半分以上は警察と付き合ってきました。いわゆる事件記者ですね。海外特派員とはほとんど正反対のことをしていたわけです。
わりに早く結婚したもので、次女が今春大学に入ります。2人の娘は東京に置いて妻と2人で生活しています。といっても妻はちょくちょく帰国していますが。
事務所はジャカルタの中心にある大きなロータリーに面したビルの中にあります。日本の戦後賠償で建設を始め、三井物産などが引き継いで72年にできたビルです。日航系のプレジデントホテルとつながっています。向かいにはやはり戦後賠償でできたホテルインドネシアがあります。ロータリーにはほかにマンダリンオリエンタルホテルとグランドハイアットホテルが向かい合っています。8階の事務所から見下ろすと毎日、大統領の車列が公邸から大統領宮殿に向かうのが見えます。ワヒド大統領が弾劾され、今のメガワティ大統領と交代する前日には、戦車や装甲車の列がここを通って宮殿前の広場に向かっていきました。
スタッフは日本人が私1人。取材をしてくれる助手が3人、秘書が1人、お手伝いさんが1人、それに運転手が2人です。去年の8月まで、もう1人の特派員がいたのですが、アフガニスタンや中東方面に比べてニュースが少なくなって減らされてしまいました。
実は昨年10月、一時帰国していたのですが、バリ島の爆弾テロ事件がおきて慌ててインドネシアに戻りました。インドネシアのしかもバリのようなリゾートであのような事件が起きるとはまったく想像していませんでした。インドネシアの政府幹部や治安当局者も「インドネシア国内にテロリストはいない」などと豪語していました。米国の圧力で隣国のマレーシアやフィリピンがイスラム系テロリスト摘発に動き出しても、インドネシアの当局はまったく動こうとしませんでした。事件が起きて、本当はテロリストのネットワークが深く広く国内にはびこっていたことがわかり、面目丸つぶれになったのです。だから、今は米国に強くものがいえない立場に陥っています。
インドネシアがテロリスト摘発に消極的だったのは、国民の9割近くいるイスラム教徒を刺激したくないからでした。2億2千万人の9割ですから、世界で一番たくさんのイスラム教徒を抱えた国なのです。メガワティ大統領自身もイスラム教徒ですが、建国の父スカルノの娘である彼女は、政治的にはイスラム政党と対極にある民族主義者です。だからよけいにイスラム教徒に気を使わねばならないともいえます。
私自身、ここへ来るまでイスラム教についてはよく知りませんでした。うちのスタッフも全員イスラム教徒ですので、事務所の資料室はお祈り部屋もかねています。毎日5回、あちこちにあるモスクから一斉に、お祈りを呼びかけるアザーンが大音量で流されるのには、最初少し閉口しました。一番早いのは夜明け前ですから、慣れないと5時前に目がさめてしまいます。でもこの国のイスラムが「穏健なイスラム」とされることもあって、2年もいるとそれほど違和感がなくなってきています。
「穏健なイスラム」とはどういうことでしょうか。イスラムの聖典はいうまでもなくコーランですが、コーラン自体は神が預言者ムハンマドに語らせた長い長い物語のような教えで、日常生活の事細かな指針が含まれています。ですが7世紀アラビアの砂漠の中で生まれたコーランを、時代も環境も違う場所で生きる人々に適用するときには、当然解釈の幅のようなものが生まれます。特に発祥の地からもっとも遠いところにあるインドネシアなどでは、かなり緩やかに時代と地域の特性に合った解釈がおこなわれている。それを「穏健なイスラム」といっているのだと私は考えています。
実際、ここのイスラム教徒の中には、私たち外国人が「なんちゃってイスラム」と呼んでいるくらい融通無碍な人たちもいます。お酒を飲む人もいますし、断食月に断食をしない不心得者もけっこういます。一般的にも病気だとか妊娠しているとか何かの理由があれば、そのときは断食しなくても、また別の機会にすればいいことになっています。お祈りも都合が悪ければ、必ずしも1日5回しなくてもいいようです。レストランでキャンペーンをしている超ミニをはいたハイネケンガールにもイスラム教徒はいます。こういう国にいるからも知れませんが、私はイスラム自体が好戦的だとか過激だとかというイメージは、まったく持っていません。
昨年と一昨年、アフガニスタンやパキスタンに応援で長期出張しました。あのあたりのイスラムは一味違う印象を受けました。9・11事件の2ヵ月後に行ったパキスタン西部では、反米デモが燃え上がっていました。同じパシュトゥン族のタリバーンが攻撃されているのですから、このあたりのデモとは迫力が違います。そのころはちょうど断食月でした。岩山と砂漠しかないような乾燥地帯で、彼らは夜明けから日没まで水も口にしないし、つばも飲んではいけないのです。何かイスラムに対する覚悟の違いのようなものを感じました。
アフガニスタンではタリバーンの施設で数日生活しました。批判すべきところはたくさんあるでしょうが、タリバーンはもともとイスラムに基づいた改革運動でした。大国の介入と多民族の争いの繰り返しで求心軸のない国を、彼らなりにまとめようとしてきたことは確かです。砂漠に沈む夕日に向かって祈る彼らの姿には打たれるところもありました。昨年7月にはカンダハル周辺で米軍の爆撃の後を歩いて見ました。当然ながら、関係のない市民がたくさんそこで死んでいます。空爆当事、アフガンの運転手たちが集まる食堂で、米軍が国道を走るタンクローリーを片端から爆撃していると聞いたことがありました。燃料は一種の戦略物資かもしれません。しかし、運転手たちはもちろん民間人です。昨年訪れたとき、国道には確かにタンクローリーの残骸が転がっていました。
今朝CNNでブッシュ大統領の演説を聞きました。米国はまもなくイラクで戦争を始めようとしています。アフガニスタンのことはもう忘れてしまったかのようです。標的だったはずのオサマ・ビンラディンはどうやらまだどこかで生きているようなのに。米国がテロに対して通常戦で挑んだのがそもそも間違いだと、私は思っています。それなのにまた大儀なき戦争が始まろうとしている。戦争は恨みを世界に拡散し、また新たなテロや戦争を呼ぶことでしょう。個々の戦争に勝利したとしても、この21世紀の米国の戦いには終わりがないように思えます。9・11の恐怖に駆られた米国は、次々に現れる敵と力が尽きるまで戦い続けるつもりなのでしょうか。米国は自由と民主主義の皮をかぶった制御不能の巨大な怪物になってしまったかのように見えます。フランスはその怪物の前で一瞬手を広げ喝采を浴びましたが、もとより止める力などありません。そしてわが日本は・・・その後ろを何も考えずについて行くだけなのでしょうか。
言いたいことはまだいろいろありますが、またの機会にします。
今のところイラク関係の応援要請はありません。こういう時はまず若い人が行くことになっているのです。でも長期化すれば、そのうち交代のお声がかかるかもしれません。それまでは、しばらくジャカルタで好きなことをしていようかと思っています。
それでは皆さん、またお会いしたときにゆっくりお話しましょう。
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